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エッセー

お米が作った日本文化


味酒 安則(みさけ やすのり)

 

太宰府天満宮 権祢宜(神官)
 太宰府天満宮 文化研究所 主管学芸員
 筑紫女学園大学 講師(博物館学)

 

                                       
                  

1953年  福岡生まれ
1978年  国学院大学文学部卒業
1981年  太宰府町(市)文化財専門委員
1992年  福岡女子短期大学講師(民俗学)
1998年  筑紫女学園大学講師(博物館学)
2000年  九州国立博物館有識者会議〈仮称)委員

      現在に至る
【所属学会】
1985年  儀礼文化学会
【出版著書】
1988年  『天満天神』筑摩書房
1988年  『国史大辞典』第9巻

      吉川弘文館(共著)
1990年  『太宰府天満宮の祭-その成立と

      変遷-』儀礼文化学会
1996年  
『日本文化のなかの水』

      日本水環境学会 他
 
現在(2001.9.7)西日本新聞朝刊

「もっと知りたい天神さま」連載。

 

 日本人は、お米を主食とする二本箸の民族です。
しかし、米作りを始めるには、三つの問題点がありました。いいところばかりでしたら、世界中でお米を食べているはずですが、そうではありません。お米には三つの欠点があるのです。

 

米は酸性が強い食品

 

 一つは、酸性が強いのです。欧米の方と一緒に食事をしていますと、お肉を食べながらご飯を食べている日本人を見て、心配でたまらないなどといいます。何故ですかと聞くと、お肉は体に入ると酸性、ご飯も酸性で、血液は弱アルカリだから云々という話になります。しかし、そんなことは古代人も知っていたんです。そこで、梅干しがあるわけです。梅干しはお皿に載っているときは酸っぱいですから、酸性ですが、これが唾液と混ざって胃に入っていくとアルカリ性に変わります。ですから、ご飯の酸性と梅干しのアルカリ性で上手に調和します。お昼ご飯に、梅干し入りのおにぎり、もしくは日の丸弁当というのは、ある意味では究極のランチなのかもしれません。というのは、日本人は朝食はお味噌汁にお漬物で、これは塩分をとっているのです。あるいは、醤油をかけて、納豆を食べています。一方、お昼は力さえ出ればいいというわけです。梅干しとご飯、これはカロリーバランスが少し悪いのですが、力さえ出ればいいということです。そして、夜になって、他の蛋白質とか、脂肪とかをたくさんとるというのが日本人の食生活です。ですから、このお米の欠点を補っていったところに、日本人の食文化史があり、お米の欠点を補っていったところに、実は日本文化が生まれたといっていいでしょう。

 

温帯では難しい植物


 次に、お米というのは、忘れがちですが、熱帯の植物なのです。ジャポニカ種であろうと、インディカ種であろうと、熱帯の植物なのです。それを温帯で、しかもビニールハウスも何も使わない自然界で栽培すること自体が無茶なのです。日本で水田にパッと籾種を蒔くとどうなるかというと、どうにもなりません。芽は出ないのです。南方、ミャンマーやタイやインドネシアですと、パッと蒔けば、ちゃんと芽が出てきます。それで、日本人が考案したのが苗代です。土を高く盛って栽培します。もちろん、水の浸透圧で少しでも高いところの方が温度が高い。さらに、竃(かまど)の黒墨を置くんです。すると、太陽光線の中の赤外線をたくさん吸いまして、熱量が増して、籾は、熱帯だなと思って、芽が出るわけです。そして、それを梅雨までにやっておかなければいけません。さらに、梅雨のときに一家総出で田植えをします。夏になると、南方はスコールが降りますから、それこそ水田なのです。しかし、日本はどうかというと、太平洋気団がどっかと居座るので、雨が降らない。八月になりますと、晴天が続き、田はひび割れをしていきます。水不足を招きやすい地域では、ダムなどの水瓶が心配となります。夏とは、太陽が容赦なく照りつけ植生にはきびしい季節なのです。田の草が生えてきます。雑草をとらなければいけません。それから台風が来るまでに刈り入れをすまさなければいけないのです。お米というのは非常に手がかかるものなのです。
 お米という字は、分解しますと八十八、すなわちお米ができるまでには八十八工程要るというのです。だから、勤勉な日本人を創ったのは、米文化なのです。さらに冷夏の経験から、貯蓄型の日本人を創ったのも米文化なのです。前述のように、熱帯のものを温帯で作っているわけですから、冷夏があるわけです。数年前もありました。国産米がない。昔はあれが飢餓なのです。いわば平成の大飢饉でしょう。しかし、今は流通がいいものですから、アメリカやオーストラリア、中国から外国米が来て、どうにかつないだというわけです。
 あれが江戸時代なら、きっと食糧危機、大飢餓になっていたはずです。

 

多量の水が必要
  

 三つ日の問題は、お米はどこで作るかというと、水田で作ります。水が要るという事なのです。では、日本に水があるかというと、答えはあります。というのは、日本の主要都市は、世界の温帯圏で、三倍雨が降っています。もちろん、東京も三倍近く降っています。しかし、日本列島には保水力がないのです。だから、日本には三千数百カ所のダムがあるのです。
 それでは、我々の先祖は、なぜこういう場所でお米を作ることを選択したのかというと、やはりお米の利点が魅力であったということなのです。どうやってこの三番日の欠点を補てんしたかというと、植林をすることで解決しました。古代人は、来る日も来る日も雑木を植えていったと考えられます。

 

肥後の殿さま
  

 熊本、肥後藩で、こんな話が残っています。将軍吉宗のころ、享保の大飢饉があって、お米がなくなりました。熊本でイナゴが異常発生したのです。岡山までイナゴが稲を食べ尽くしました。九州では、名前がわかっているだけで、二万人が亡くなったのです。当時は戸籍などありませんので、推定でも十万人近い人が亡くなっただろうといわれています。
 それで、熊本のお殿様は、下級武士を百人ほど呼びまして、熊本城でまず頭を下げたそうです。そして、「君たちは明日から熊本城に登城しなくてよろしい、御船という場所に行って、お米を作ってくれ。」といいました。殿様が頭を下げたわけですから、みんな家族を連れて、御船に移住したのです。行って、驚きました。水がないのです。米を作ってこいと言われたのですが、川がない。それでどうしたかというと、このお侍さんたちは、来る日も来る日も山に雑木を植えたのです。そうすると、このお侍さんたちが天寿を全うするころに、やっと小さな川ができたそうです。まだ米は作れない。子供たちがまた雑木を植えていきました。そうすると、やっと子供たちが四、五十になったころに、水田がつくれる川ができたといいます。
 おそらく弥生人も木を植えたのです。そして、保水をしていきました。というのは、山の木は、雨が降りますと、木の根っこが水を保つのです。山は天然のダムといえます。そういった意味では、水田自体もそうです。水田というのは、水かさは浅いのですが、昔はどこでも水田ですから、広い面積で水を保っている。井戸を掘れば、水が出たのですけれども、今はだんだん水田が宅地化されてしまって、水不足が慢性化してくるというのは、古代人の知恵の逆をしていることになります。

 

お米は日本文化の源流
  

 お米は日本文化の中の大切な柱といえます。日本民族として、決して忘れてはいけない我が国最大の生産物なのです。お米が日本の歴史に果たした役割について否定する人はいませんが、現代の日本の物質文化及び精神文化の基本にあるということを忘れてしまっている人は多いと思うのです。
 わたくしは、お米がつくった日本文化を見つめ直すことによって、わが国のより正しい歴史の証明ができると考えています。

 

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