教育問題などについて
西田 喜多雄(にしだ きたお)
西田鉄工(株) 副会長
衝撃的な映像が連日リアルタイムで放映され、世界中の耳目を一転に集めたイラク戦争は首都バグダッドの軍事制圧まで当初の予想が大きく外れて、わずか3週間という短期間で攻撃作戦はあっけなく一応の終結を迎えた。米国の軍事力の強烈さをいやという程見せ付けられたものだが、何故かやり切れない複雑な思いが残像のように残る。
米国は英国と共に、開戦にしつこく反対した国連の多数国の中の主要国、フランス、ロシア、ドイツなども含めて現在、土地建物の復旧や市民生活、経済援助など、おびただしい項目にのぼる戦後復興対策、最終的にはイラク人による新しい政権の樹立まで極めて困難な課題を背負って大変な局面に立ち向かっているが、世界中に影響する大問題である。各国が掲げる大義名分の裏側には、それぞれの国益を主眼とした石油の利権問題や軍事経済への影響に対する打算や思惑も絡んで、戦後再燃したイスラエル対パレスチナの攻防や一段と高まった世界中のテロの脅威も加えて事は複雑である。その中で基本的に一番問題なのは宗教の問題であろう。ブッシュ大統領は「イラク人による民主的な政権」の樹立というが、そんなものが期待できるのか?答えは「ノー」だと思われる。
京都大学の白石隆教授が先日の新聞の論説欄で、イスラム主義とは「政権分離の思想を受け入れず、主権を神以外のものに託し、その主権者を崇拝の対象とすることをあくまで峻拒する主権在神思想である」と喝破していたが、正に傾聴すべき警告だと思う。
そもそも、民主主義、自由主義はイスラムには育たないのではないかと心配したくなる現実がある。筆者自身、インドネシアなどに業務出張した折に経験した事であるが、アラーの神が人間のはるかな上位に鎮座して絶対的崇拝の対象とされており、人間同士の関係は価値観として小さいものであって信頼とか感謝とかの社会形成の基本とも云えるモラルが極めて薄く、これが理由で、ある会社との取引関係を結ぶのを断念せざるを得なかった経験があるが、宗教とは難しいものだと実感したものである。先記のイスラエル対パレスチナの紛争も元をただせば3000年来の争いであり、限りなく続く「宗教戦争」の実態は人間の不幸な悩みの最たるものかも知れない。
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世界中の政治、経済、軍事、宗教問題は最近急ピッチで険悪化した北朝鮮の動向などを含めて混乱を極めている。わが国内も長びく経済不況や政界不安定を背景に社会生活の面でも信じられないような事件が多発し困ったものである。そんな世の中で、いろいろ考えさせられることが多いわけだが、ここで表記の「教育問題」について少し愚見を述べることにしたい。
むかしから国の基本は教育にあると云われてきたが、現在のわが国の教育はどういうことになっているのか?
前回のシドニーオリンピックは今や思い出のでき事になってしまったが、その折に神経質に問題にしたメダルの数は、たしか金5、銀8、銅5とまずまずの成績であったと記憶しているが、受賞の都度目の当りにした「日の丸」と耳にした「君が代」には皆が率直に喜んだものだ。またサッカーや柔道などスポーツの国際試合などでも同様である。ところが、そういうイベントを離れて政治や教育の場になると国旗、国家の問題にはどうしてもアレルギー反応がまだまだ現れるようで、一部の政治家や教師などが問題事項として取りあげる。
最近の少年非行、犯罪、しかも目にあまる凶悪犯罪の急増。少年だけでなく若い親たちが子供を虐待したり、その他保険殺人や行きずり無差別の傷害事件の頻発など、悲しい事件が大きく社会問題としてクローズアップされていることは枚挙にいとまのないところである。何故このようになったのか?その原因については、いろいろな人がいろんな事を述べているが、学校(先生)や家庭(親)のしつけ、少子化(一人子)、そして社会環境がよくないことなど、数多く挙げられているようである。しかし、どうもそれだけでは納得できにくい。筆者はその根本原因が、やはりこの国の教育にあることを指摘したいと思う。
そもそも、現在の教育は昭和22年(1947年)公布・施行の「教育基本法」に基づいて終戦以来行われてきたのだが、この法律はその前年、昭和21年(1946年)改正・公布の「日本国憲法」にセットされた形で作られたものである。最近ようやく自民党や民主党などの一部で取り上げられ、小泉内閣としても具体化の様子がうかがえるようになった教育基本法の改正問題は、遅きに失してはいるが大賛成である。
昭和20年(1945年)に無条件降伏した日本の敗戦直後、日本を軍事占領した連合軍(米国が中核)は基本的占領政策の中で日本の実体を全面的に変革するために、まず軍隊を完全解体し国の伝統と文化を全面否定して(天皇制だけは占領政策上内容を変えて残したが)次々と手荒な改革を強行したのは周知の事実である。現在の憲法がそんな状態の中でマッカーサー司令部の担当局によって極めて短期間に一方的に作られたものであることをはっきりと再認識する必要がある。終戦以来半世紀以上を経過し、世界中の情況が全く変化した現在の時点でこの憲法が不具合になっている点が数多く出てきているのは当然であって、見直す必要があるのは少なくとも独立国として理の当然である。いま手許に英語の原本(六法全書)があるが、前文はじめ第9条(戦争放棄)などに日本語への翻訳自体、法律としてはお粗末な文章と思われる箇所すら見受けられるものである。教育基本法はこの憲法に連動するものであるが、この際改めて一読してみた。興味のある方は是非チェックされるがよいと思う。11ヶ条から成る簡単な法律だが、教育の目的、方針、機会均等、男女共学などの条文は教育に関しての基本的なアティチュード(捉え方・態度)はアメリカ式に整ってはいるが、現在の日本に求められる大切な教育内容のあり方についてはほとんど触れられておらず、良識ある公民(CITIZEN)の育成が主眼となっているものである。国際法違反の「東京裁判」ではっきりしたように、日本は悪い国、外国を侵略する国という認識を植えつけられ古来の良い伝統文化を否定することが一つの理念の形になってしまっていることを何とか変えなければならないと痛切に感じている。
日常生活の中で、親に孝行する、先生を尊敬する、兄弟友達と仲よくする、礼儀を正しくする、社会(国家・公共団体等)に奉仕するというような社会生活に大事で必要なことを幼い頃から教え導くことが大切であると思うが、いかがであろうか。子供達は教えないから知らないのである。
EDUCATION(教育)の本来の意味はEDUCE(引き出す)から来ているもので、子供達が潜在的に持っている能力を引っ張り出してやることは大事なことであるが、やはり教えるべきは教えてやらねばならないと思う。教育こそ百年の大計である。いまさら明治23年制定の「教育勅語」の復活などと云うのでは決してなくて、日本人が日本の歴史と文化に誇りを持ち普通の道徳が広く教えられ、国際社会の中で尊敬されるような民主的で礼儀正しい健やかな社会と率直に愛国心を持てるような国の再生が望ましいし、筆者のような老人?は死ぬまで何らかの形でこのようなことを主張し続けることが今大事なことと思っている。
ごく最近になって政界のみならず言論界でも広く憲法・教育基本法などの改正問題を急ぐ気運が高まってきたが、歴史や道徳の教科書改訂の事項なども含めて、「国を愛する」は良いが「愛国心」は駄目だなどというような愚論はやめて、わが国のあり方をしっかりとした理念とポリシー論議されることを切に念願するものである。